第一章：運命の水曜日
1992年9月のある朝、ロンドンの金融街はいつものように活気に満ちていた。トレーダーたちはコーヒーを片手にスクリーンを睨み、ポンドの行方を見守っていた。しかし、この日が英国経済にとって歴史的な一日になることを、まだ誰も知らなかった。
ハンガリー生まれの投資家、ジョージ・ソロスは、その時ニューヨークのオフィスで静かにチェスの駒を動かすように、ある決断を下した。彼の狙いは、イングランド銀行が維持しようとするポンドの価値を打ち砕くことだった。
第二章：ポンドの呪縛
英国は、欧州為替相場メカニズム（ERM）の一員としてポンドの価値を一定の水準に保とうとしていた。ERMとは、欧州各国の通貨が一定の範囲内で相互に連動するように設計された制度で、将来的なユーロ統合への準備と考えられていた。しかし、英国経済は低迷し、インフレと高金利が市民を苦しめていた。ポンドは過大評価されていると多くの投資家が考えていた。
ソロスはこの矛盾を見抜き、巨大な賭けに出ることを決意した。彼のファンド「クォンタム・ファンド」は、膨大な額のポンドを借り、それを市場で売る「空売り」を開始した。この手法により、ポンドがさらに下落すると見越していたのだ。
第三章：イングランド銀行の孤独な戦い
イングランド銀行はポンドを守るために介入し、金利を引き上げ、ポンドを買い支えた。しかし、ソロス率いる投資家集団の攻撃は容赦なく続いた。売られたポンドは市場に溢れ、通貨の防衛は困難を極めた。
1992年9月15日、英国政府は公式にポンドを守るために大規模な市場介入を実施し、金利を10％から12％に引き上げたが、市場の圧力は止まらなかった。政府はさらに金利を15％にまで引き上げることを発表したが、それでも投機筋の売り圧力には対抗できなかった。
9月16日、ついにイングランド銀行は介入を諦め、ポンドはERMから離脱。ポンドの価値は急落し、ソロスは10億ドル以上の利益を得た。一方、英国政府は金融市場における信頼を大きく損ない、国家財政に甚大な影響を受けた。この出来事は英国経済政策の転換点となり、結果的に英国は柔軟な通貨政策を取るようになった。
終章：投機の英雄か、破壊者か
この出来事は「ブラック・ウェンズデー」と呼ばれるようになり、ソロスは「イングランド銀行を潰した男」として名を馳せた。彼の手法は、単なる投機ではなく、市場の不合理を突く鋭い戦略だった。
しかし、この事件は金融の世界にとって、投機の力が国家すら揺るがすことを示す象徴的な出来事となった。英国政府はこの教訓をもとに、ポンドの独立性を重視し、後に独自の金融政策を確立していった。
ジョージ・ソロスの名は、金融市場の歴史において伝説として今も語り継がれている。
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